内向型であること

4月某日

私は激しい焦燥感に苛まれていた。
趣味仲間の友人から誘われて決行した京都旅行。

幼い頃から憧れた友人とのお泊まり会、思う存分趣味の話を楽しみ、成人して、ある程度は蓄えを持った私達は良識の範囲内で動いていれば誰も咎める者はいなかった。楽しい、それは嘘ではない。

なのにどうして私はこんなにも疲れはてているのか。
友人に対してプレッシャーを抱いているのか。
端的に言うのなら帰りたいのか。

未知の感情に戸惑い、それを露骨に表に出して迷惑をかけたくない一心でとにかく適当な理由をでっちあげて明るく振る舞った。

それもまた拍車をかけたのかもしれない、度重なる移動に体も疲弊していたのは確かだが明らかにメンタルがおかしい。
他人の一挙一動がとにかく気になり、相手の表情に少しでも揺らぎや躊躇があれば何かをやらかしてしまったか?と焦ったものだし、友人特有の気のおけない些細なやり取りにしなくても良い邪推を重ねた。

これでは友人が悪いように見えてしまうが全くそういうことはない。
寧ろ普段よりもぎこちない自分に気を使わせてしまって申し訳ないくらいだ。

とにかく二泊三日の京都旅行の終盤、別れを惜しみ帰りたくないとしみじみ口にする二人に対して細心の注意を払いながら相づちを打ち、帰りたくないとすら思えない自分を発見した時に率直に非人間では????と評価を下すしかなかった。



電車に揺られながら楽しかったはずだよな…?と自問自答しているとまぁ時間の体感速度が遅い。

以前からコンプレックスではあったのだ。

一人が好きな癖に他人が建設的なアクションを起こして、親密な関係になる努力を重ねた末にコミュニティが作り上げられていくのを横ですげぇなーとぼけっと眺めている自分。
時にはお門違いなやっかみを内心で燻らせ、それに加わる努力もせず、勇気もわかず、嫉妬していた。
そんな自分が嫌で「社交的」に「明るく」振る舞った結果、会いたい、面白いと言ってくれる人が増えた。ありがたいことに。自分でも良好な関係が作れる、周りの人はこんなにも素晴らしい。

それなのに、めちゃくちゃ疲れる。
分かってはいるのだ、他人は案外自分に面白さや有用性を期待していないし、純粋に人脈の広がりを楽しめば良いのだと。
その時期は丁度、職場でも歳の変わらない社員さんと親しくなり予定を詰めていた時期でもあり、今思えばかなり自分の時間も作れず、憧れの社交的な自分に酔いしれて無理を重ねていた。
自分も素晴らしい輪の一部にいれてもらおうと行動すればするほど素晴らしさを疑いたくなる自分がいる、悪気はないと言い聞かせても投げ掛けられる言葉にもやもやする回数が増えていく。
気にするな、気にするな、深い意味はない、また間違えてしまっただろうか、何度も問いただしても、暗示をかけても不安が取れない。
素晴らしい人達に自然と自分のだめさとままならなさを比較して落ち込んだ、泣いていた、そもそも泣くことが恥ずかしくて、そして訳が分からなくて、行動!気にしない!と言い聞かせる日々。
不愉快な夢を見て、早朝や深夜に目が覚める回数が増えていく。人に迎合して望むものを提示し続けると確かに求められる、気兼ねなく。
自分が望んだことだ、そして自分が勝手に自滅したことだ。相手に全く非はない。そもそも非のあるなしを考えることそのものがもう面倒くさい。



なんで皆のように楽しめないのか
なんで皆のように努力ができないのか
なんで皆は簡単に見ず知らずの他人と会えるのか
そんなに自分に自信があるのか



やっかみである。
自信をつけるために必死でもがいたけれど他人と関われば関わるほど何かがすり減っていく、その正体が分からず、何時しか人と会うのがだるい、面倒、自分はクズ、なんでこんなに他人の一挙一動がきになるんだろうと鬱屈した感情を拗らせていた矢先に内向型という言葉をふと目にした。


内向型は他人と交流することに消耗しやすいが外向型の振る舞いに憧れを抱きやすい。

外向型のようになりたいとは思わないが、外向型の生き方に劣等感を抱きやすい。


私じゃないか。

気付いたら、このもやもやは嫉妬もやっかみも確かにあるだろうが、単純にあるがままの自分を受け入れずに、悲しい、辛いという当たり前の気持ちを圧し殺してきたことを自覚して泣いていた。

そういえば私は辛いとか悲しいを努力不足と自己責任で片付けてはいなかっただろうか。
確かに自分にも問題があったし他人に責任を求めるのはお門違いだろう、しかしそれで自分の辛さを圧し殺して良いものか。
何が悲しかったのか、辛かったのか心当たりがあまりにありすぎてこれと断定できるものではないが、積み重ねてきた激情を処理するのにまだ時間がかかりそうで、それもまた憂鬱なのだけれど、肩の荷が少し降りた気がする。